歎異抄 第2章 浄土への道

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歎異抄の原文

①おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。

②しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

③念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

④弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。

⑤詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々]。

語句説明

十余箇国・・・関東の門弟が親鸞聖人を訪ねて京都まで行くのに通った国々。東海道を通った場合、常陸・下総・武蔵・相模・伊豆・駿河・遠江・三河・尾張・伊勢・近江・山城、そして京都となる

身命をかへりみずして・・・命をかえりみることなく。

たづねきたらしめたまふ御こころざし・・・訪ねてこられたご意向。

極楽・・・阿弥陀仏の浄土のこと。 もろもろの楽しみが常で、 苦しみがまじらない世界

法文・・・仏教を説き記した文献。

こころにくく・・・はっきりしないものに大きな期待を抱き、心がそそられるさま。

南都北嶺・・・南都とは奈良の興福寺等の諸大寺と、北嶺とは比叡山の延暦寺のこと。 また、 鎌倉仏教に対する奈良・平安の顕密仏教のことを指すこともある。

ゆゆしき学生・・・すぐれた僧侶

別の子細なきなり・・・特別に変わった事情はない。

浄土・・・穢土に対する語で、 菩薩の智慧清浄の行業によって建立された清浄な国土。 煩悩のけがれを離れたきよらかな世界。

たね・・・原因のこと。仏教で言う因果のことで業因ともいう。

地獄・・・自らの罪業の結果として衆生が趣く苦しみのきわまった世界。八熱地獄 熱気に苦しむ8種の地獄。 八大地獄ともいう。 等活・・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・の8種からなる。

・・・業因のこと。思想や言語、行為のこと。

総じてもつて存知せざる・・・知るところではない。知識で究明できる性質のものではない。

すかされ・・・だまされる。

自余の行・・・そのほかの修行、念仏以外の修行のこと。

仏に成るべかりける身・・・仏になるはずであった身。

いづれの行もおよびがたき身・・・どのような行も純粋に徹底して修行できない身。

とても地獄は一定すみかぞかし・・・きっと地獄は私が住むところである。

弥陀の本願まことにおはしまさば・・・阿弥陀仏の本願が真実であるならば

釈尊・・・仏教の開祖。 牟尼・釈迦文・釈迦などともいう。 約2500年前、 インドのカピラヴァストゥの王、 浄飯王を父とし、 摩耶夫人を母として誕生した。 29歳の時に道を求めて出家し、 多くの師を来訪したが満足せず、 尼蓮禅河畔で6年間にわたり苦行した。 その後、 35歳の時、 菩提樹の下に座って瞑想し、 ついにさとりを開いた。 その地をブッダガヤーと呼ぶ。 成道後、 梵天の勧請により鹿野苑 において五比丘に初めて説法 (初転法輪) をし、 以後45年間各地を巡って人々をし、 80歳でクシナガラの沙羅樹のもとに身を横たえて入滅した。

釈尊の説教・・・お釈迦様の説かれた教え。

善導の御釈・・・善導大師の解釈。

愚身の信心・・・おろかな自身の信心。阿弥陀仏よりたまわるご信心の素晴らしさと、自らの力では苦しみ悩みから抜け出せない凡夫性を対比させて愚身と表す。

面々の御はからひなり・・・おひとりお一人のご決意次第である。

歎異抄の現代語訳

①あなたがたがはるばる十余りもの国境をこえて、命がけでわたしを訪ねてこられたのは、ただひとえに極楽浄土に往生する道を問いただしたいという一心からです。

②けれども、このわたしが念仏の他に浄土に往生する道を知っているとか、またその教えが説かれたものなどを知っているだろうとかお考えになっているのなら、それは大変な誤りです。そういうことであれば、奈良や比叡山にもすぐれた学僧たちがいくらでもおいでになりますから、その人たちにお会いになって、浄土往生のかなめを詳しくお尋ねになるとよいのです。この親鸞においては、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われ往生させていただくのである」という法然上人のお言葉をいただき、それを信じているだけで、他に何かがあるわけではありません。

③念仏は本当に浄土に生れる因なのか、逆に地獄に堕ちる行いなのか、まったくわたしの知るところではありません。たとえ法然上人にだまされて、念仏したために地獄へ堕ちたとしても、決して後悔はいたしません。
なぜなら、他の行に励むことで仏になれたはずのわたしが、それをしないで念仏したために地獄へ堕ちたというのなら、だまされたという後悔もあるでしょうが、どのような行も満足に修めることのできないわたしには、どうしても地獄以外に住み家はないからです。

④阿弥陀仏の本願が真実であるなら、それを説き示してくださった釈尊の教えがいつわりであるはずはありません。釈尊の教えが真実であるなら、その本願念仏のこころをあらわされた善導大師の解釈にいつわりのあるはずがありません。善導大師の解釈が真実であるなら、それによって念仏往生の道を明らかにしてくださった法然上人のお言葉がどうして嘘いつわりでありましょうか。法然上人のお言葉が真実であるなら、この親鸞が申すこともまた無意味なことではないといえるのではないでしょうか。
つきつめていえば、愚かなわたしの信心はこの通りです。

⑤この上は、念仏して往生させていただくと信じようとも、念仏を捨てようとも、それぞれのお考えしだいです。
このように聖人は仰せになりました。

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